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日本は19世紀後半の欧米を再現しようとしている

VOAの American History がとりあげている移民の問題

VOA Special English に U.S. History というコーナーがあり、これが大好きだ。簡単な英語で書かれているとはいえ内容はかなり濃い。目が疲れない電子ペーパーのKindleを買ってからはこの U.S. History をよく読んでるよ。最近読んで衝撃を受けたのがこれ。19世紀のヨーロッパとアメリカ。移民の歴史。
American History: Immigrants From Europe Seek a Better Life in a New Land | U.S. History | Learning English

簡単に翻訳しといた。「移民」とか「外国人参政権」の問題に興味がある人は読んでほしい。19世紀のヨーロッパとアメリカってまるで現代の日本なんだよね。

おおざっぱな翻訳

1860年までのアメリカは農業国。工業国になったのはその後のことである。1860年の商業工業生産は2億ドル。30年後には工業生産が10億ドルになる。500万人以上が工場または炭鉱で働き、300万人が建設または輸送の仕事をするようになった。

農業から工業へと多くの人が移った。農業はきつく賃金が少ない。若者は家の農業を捨て、もっと簡単で良い生き方を求めて都市に移った。彼らの望むものは工場にあった。一所懸命働いて新しい技能を身につけた者は更に良い職を得ることができた。

これは農業従事者に限ったことではない。外国からやって来た移民もそうだ。さまざまな理由でさまざまな国から人がアメリカにやって来た。彼らの目的は同じだった — 新しい世界でより良い生活をすること。

1850年代アメリカ、産業革命。工場が欲しがったのは熟練労働者だった。彼らには高額の給与が与えられた。

イギリスから来た労働者はそれらの技能を有していた。もともと彼らはイギリスでも工場労働者だったのだ。祖国では賃金が低かったけれどアメリカでは違う。だから彼らはアメリカにやって来た。イギリス人だらけの工場が多かったのはそういうわけだ。

マサチューセッツの Fall River にある織物工場にはイギリスのランカシャーから多くの若者が来た。サンフランシスコの造船所にはスコットランドから、石炭の炭鉱にはウェールズからやって来た人が多かった。

アメリカに行って農業を始める者が多かったのはタダで土地を得られたからだ。彼らは西部の豊かな土地に行き、自分で農耕地をつくった。

当時のイギリスで流行った歌。"To The West."

To the West, to the West, to the land of the free
Where mighty Missouri rolls down to the sea;
Where a man is a man if he's willing to toil.
And the poorest may harvest the fruits of the soil.
Where the young may exult and the aged may rest,
Away, far away, to the land of the west.

ある者にとってアメリカは最後の希望だった。1840年代のアイルランドはたび重なる農業の失敗に苦しんでいた。飢えた人たちは祖国を離れなければならなかった。1850年だけで11万7千人のアイルランド人がアメリカにやって来た。彼らの多くはカネがなく教育を受けていなかった。彼らにとって「アメリカ」は魔法の言葉だった。

当時のヨーロッパは厳しい時代を迎えていた。人々はアメリカに行こうとしていた。ある国では移民を手伝う団体がつくられた。以下はあるポーランド農民がワルシャワのそういう団体に宛てて書いた手紙である。

私をアメリカに行かせてください。私はお金がありません。あるのは手と10本の指と妻と9人の子どもです。体力には自信があり、健康です。まだ45歳です。しかしいま全く仕事がありません。ポーランドのいろんな町に行きましたが、稼げませんでした。私は仕事がしたいのです。しかし何ができるというのでしょう。盗みをするつもりはありません。そして仕事がありません。そういうわけでアメリカ行きを希望します。

その後「より良い仕事をしたい」という動機でアメリカに向かう人は減り、「どんな仕事でもやります。仕事をください」という人が増える。それぐらいヨーロッパは不況だったのだ。

あるイギリス人国会議員はこのように言っている。「多くのイギリス人が国を去っていますが、これは彼らが好き好んでそうしているのではありません。必要に迫られてそうしているのです。ロンドンをはじめとして多くのイギリスの都市で人々が飢えて死んでいます。彼らは農業と工業に起きた革命の被害者です」。

小規模農家は消滅して大規模農場に置き換わった。新しい農業機械が人間にとって代わった。そんなわけで大量の農民が他の仕事を探す羽目になった。そして工場へ。工業の成長は急速だったが、仕事を失った人々すべてが職を得るのは急速ではなかった。

次の10年間。イギリス、ドイツ、あるいはスカンジナビアの国々から数百万の人がアメリカに渡った。しかしそれらの国で工業が成長するにともなって雇用が創出された。こうしてアメリカへの移民の流れはいったん小さくなる。

次にアメリカにやって来たのは南欧と東欧の人々だった。ロシアとポーランドの反ユダヤ感情に嫌気が差したユダヤ人たちがアメリカに向かった。

1880年代後半。イタリア南部にコレラが広まる。この病気に対する恐怖がさらに移民を産み出す。

軍拡を嫌って国を去る者もいた。徴兵を逃れたい若者がアメリカに行った。軍拡はコストがかかる。高額になった税金を払いたくない者がヨーロッパを去った。

理由が何であれ人々はアメリカに移住した。この流れはとまらなかった。

新しい移民はこれまでの移民とは違った。彼らは技能がなく、読み書きができなかった。

アメリカの工場主たちは南欧や東欧から来た新顔たちが仕事熱心であることに気づいた。彼らは「仕事がきつい。給料が安い」などと文句を言わない。労働条件の改善を訴えることをしない。労働組合に入らない。ストライキをやらない。

工場主たちは高給与のアメリカ人またはイギリス人労働者に代えて新しい移民たちを使うようになった。経営者たちは新しい労働力をさらに欲しがった。新顔の移民たちにはたらきかけ、祖国の友人や親戚に宛てた手紙を書かせた。「君たちの友人や親戚をアメリカに呼び寄せなさい。仕事ならたくさんありますよ」

そういう手紙がさらに多くの移民を呼び寄せた。新しい労働者をアメリカに連れてくる大規模な蒸気船会社もあった。それらの会社はヨーロッパ中の代理人たちに報酬を与え、アメリカ行きのチケットを売らせた。蒸気船はヨーロッパに行くときは穀物を積み、アメリカに戻るときは移民を積んできた。

数百人または数千人単位で移民が蒸気船でやって来た。ヨーロッパのありとあらゆるところからやって来た人々。ある者はニューヨークにとどまり、ある者は東部の都市に向かい、またある者は西部に向かった。ペンシルベイニアの鉄鋼工場、ウェストバージニアの炭鉱、ミシガンの製材キャンプ、シカゴの家畜飼育場あるいは食肉工場。

1年とたたないうちにアメリカの非熟練労働に携わるのはほとんどが外国人労働者になってしまった。アメリカ人労働者たちは抗議の声をあげるようになった。移民の洪水をとめよう、と要求した。

移民を呼びかける人たち

以上がVOAの記事の引用というか翻訳だ。

オイラは外国人参政権と移民の問題を政治問題だと思い込んでいる国士様(笑)の政治ゴッコには全く興味がない。現代日本で移民の必要性を訴えているのは誰なのか。松下政経塾だけでなく自称「保守」の人たち(清和会とか「たちあがれ日本」とか)の中にもそういう手合いがたくさんいる。本当の保守は彼らを監視しなければいけない。

細かい部分は違うが、おおざっぱに言えば今の日本は「移民」という問題について19世紀後半欧米を再現しようとしている。1度目は悲劇だが、2度目は喜劇だぜ。

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