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蓮池薫氏の自伝

以下は新潮社のPR誌「波」2010年8月号の蓮池薫さんの連載「拉致と決断」からの引用。誤字と思われる箇所があるがそのままにした。この連載はまだ続いている。いずれ新潮社が書籍化するだろう。

憤りと苦悩の末、生きるがために日本へ帰る思いを一旦断ち切ってしまうと、自然に周りのことが見えてきた。朝鮮半島というところが、いつ戦争が起きても不思議ではない、危険極まりないところであることに気づかされたのだ。

テレビでは興奮した面持ちのニュースアナウンサーが、米韓の「軍事的挑発」を非難し、戦争の危機感を煽っていた。1980年代初めごろ、首都のピョンヤンではようやく2, 3世帯に1台程度のテレビ普及率だったが、午後8時のニュースが終わって、みんなが画面の前に集まる「ゴールデンタイム」になると、朝鮮戦争や抗日武装闘争を背景にした戦争もの映画がよく放映された。勝利や革命同志のためにわが身を犠牲にする勇士の姿が、脳裏に深く焼きつくように、繰り返し映し出されたのだ。

招待所の外へと耳を澄ませば、軍用機の飛行音や夜間移動の戦車の轟音、竹を割るようなせわしい自動小銃音がどこからともなく響いてきた。平時でも、山の谷間など、いたるところにある軍事訓練場では、正規の朝鮮人民軍はもちろん、準軍隊である人民警備隊や予備兵である労農赤衛隊、赤い青年近衛隊などが定期的に射撃訓練を行っていたのだが、情勢が緊張するとその頻度は一挙に高まった。また外出時に目につくものといえば、茶色や緑の軍服をまとった軍人であり、わがもの顔で一般道路を走る、黒いナンバープレートをつけた軍用車だった。緊張感というもの、戦争というものが、否応なしのものとしてわが身に迫ってきた。

ピョンヤン普通江のほとりにある「祖国解放戦争勝利記念館」(通称「戦勝記念館」)を参観したときに、軍服姿の女性講師から流暢な日本語で聞かされた言葉は、他人事としてしか戦争を知らなかった私に大きな衝撃を与えた。
「必ずもう一度、われわれはアメリカと戦争することになります。その日のために準備しましょう」
(拉致されたうえに、戦争に巻き込まれてしまうのか)
そう思うと、口惜しさ、やるせなさがこみ上げたものだ。

(中略)

ところが90年代に入って情勢は一変する。ソ連をはじめとする東欧社会主義国家がドミノ現象的に崩壊し、北朝鮮を支持支援する国がなくなった。改革・開放政策を進める中国も、以前のような「血と血で結ばれた」盟友として北朝鮮を優遇することはなくなっていった。

(中略)

旧ソ連や中国の後ろ盾もなく、しかも軍事的にかげりが見えてきた北朝鮮に対し、アメリカがいつ戦争をしかけてくるかわからない、そんな声は北朝鮮社会に強い説得力、現実味を持って浸透して行った。

北朝鮮はこのような国家的危機を、対日、対米関係の改善によって逃れようとした。

対日関係では、90年9月に金丸訪朝があり、対日接近ムードが一挙に膨れ上がった。それまで自民党政権を「日本反動の元凶」として厳しく攻撃していた労働新聞が、「日本を繁栄させた」として、その功績を讃える記事を掲載する一方、「退廃的なブルジョア文化の先鋒」である日本の映画を北朝鮮の中央テレビが放映した。さすがに公開されたのは、思想的に無難な「雪女」(日本での映画名は「怪談」かもしれないが、朝鮮語の字幕では「雪女」と紹介されたと記憶している)と、北朝鮮への帰国事業を含め在日朝鮮人の生活ぶりを肯定的に描いた「キューポラのある街」の2本だけだったが、当時はまだ韓国でも日本映画が一切公開されていない時期だった。この公開については、韓国の各層から強い非難が出たと後日、知った。驚きの連続だったが、この日朝の接近ぶりは、私にとって決して手放しで喜べるものではなかった。関係が改善して、多くの日本人がピョンヤンに来るようになれば、知られてはならない拉致被害者の存在は、ますます隠蔽されてしまうのではないか、そんな不安があったからだ。

それはともかく日本から得る賠償金が国の危機的な経済を建て直してくれるかもしれないという期待が、北朝鮮社会にひそかに高まる中、日朝国交正常化交渉は開始されたが、事前の雰囲気とは異なって最初から難航し、92年11月第8回交渉を最後に頓挫してしまう。北朝鮮の言い分では「日本側がありもしない拉致問題を持ち出したため」だった。

    *

米朝関係は幸先こそ悪くなかった。

91年12月末に北朝鮮と韓国が朝鮮半島非核化宣言で合意したため、当時のブッシュ政権は翌92年1月、それまで韓国で毎年行ってきた、そして北朝鮮が何よりも警戒していた「チーム・スピリット」の中止を表明した。

北朝鮮は、92年1月に金容淳書記を北朝鮮高官として初めてニューヨークに送り込み、米朝高位会談を行い、その結果に基づいて、IAEA(国際原子力機関)の核査察を受け入れるなどの保障措置協定の締結を決めた。これによって米朝関係には、改善の兆しが見えたかのような気がした。

ところが、その核査察の結果、北朝鮮の核開発にさらなる疑惑が生じると、アメリカはふたたび強硬な態度に出て「特別査察」を求め、これに反発して北朝鮮はNPT(核拡散防止条約)から脱退してしまう。

さらにアメリカが1年間中止していた「チーム・スピリット」の93年春の再開を発表すると、北朝鮮指導部は、超強硬姿勢に転換したのだ。北朝鮮の雰囲気は、一挙に緊張を増した。宣戦布告とも取れるような激した口調の女性アナウンサーが声明、談話、論評を連日伝え、準戦時態勢へと一挙に傾斜していった。アメリカを糾弾する集会、戦争に備えて前線に駆けつけようとする若者たちの決起集会が開かれ、「米帝を叩き潰そう」という勇ましいシュプレヒコールがあちこちで叫ばれた。

群集集会は、ピョンヤン市内を皮切りに各道で大規模に行われたあと、勤労者組織や農民組織、大学生など若者の属した青年同盟にも広がり、最後は個々の職場、学校でも行われた。燃料不足が叫ばれるなかでも、戦車部隊の轟音は一転して高く鳴り響き、銃砲の射撃音もより激しさを増した。サイレンの音とともに一斉に家の窓を黒いカーテンで覆う灯火管制訓練を、招待所でもするようになったのは、このときが初めてだったと記憶している。それまでの緊張とはまったく質が違っていた。戦争が一歩一歩近づいていると私は肌で感じた。

【蓮池薫「拉致と決断」 @ 「波」(新潮社)】

雑誌「波」の写真

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