ArtSaltのサイドストーリー

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アイヒマンを逃がした人々

ドイツの雑誌 DER SPIEGEL のWebサイトにナチスのアドルフ・アイヒマン (Adolf Eichmann) の逃亡をめぐる Klaus Wiegrefe 氏の署名記事が掲載された。

この長い記事はドイツの秘密文書をもとに書かれたものであり、

  1. A Triumph of Justice: On the Trail of Holocaust Organizer Adolf Eichmann - SPIEGEL ONLINE - News - International
  2. The Long Road to Eichmann's Arrest: A Nazi War Criminal's Life in Argentina - SPIEGEL ONLINE - News - International

の2部に分かれている。以下の引用は第2部をおおざっぱに翻訳したものである。意味がわからない部分は省略したので興味がある人は原文に当たったほうがいいです。

アイヒマンは第二次大戦後 Klement または Clement(Klemens, Clemens などはタイポ?)を名乗り、ドイツ国内にしばらく潜伏し、ナチス党員、ナチス支持者、バチカンの神父らに助けられてイタリア経由でアルゼンチンに渡る。

Holger Meding をはじめとする専門家によれば、800人にのぼるナチス関係者、数十人の殺人者、ナチスに協力した過去がある数千人のクロアチア人、ハンガリー人、ベルギー人がアルゼンチンに逃れたという。

ドイツ系アルゼンチン人ビジネスマン Horst Carlos Fuldner はそんな彼らのために就職口を斡旋した。彼はCAPRIという水力発電の工場を持っており、Innsbruck(アルゼンチンの都市)のグループを含むナチの人々を雇った。アイヒマンもそこで働いた。

ドイツのゾーリンゲンに生まれ、オーストリアのリンツで育ち、機械メーカーの仕事の訓練を受けていたアイヒマンは今や仲間と共に川の流量を測ったり、流れのパターンを監視する仕事を得、人里離れた村でひっそりと生活を送るようになったのである。

1952年アイヒマンは妻と子供をアルゼンチンに呼び寄せる。ブエノスアイレスのドイツ大使館に残っている記録によれば、彼の雇用主Fuldnerは、「クレメントの本名はアイヒマンである」という事実は彼の会社CAPRIの従業員300人の間にすぐに知れ渡ったと述べている。

1953年彼は職を変え、家族と共にアルゼンチンの首都に引っ越す。ここでアイヒマンはさまざまな仕事に手を出す。洗濯の仕事、布の生地の販売、汚物処理、ウサギの飼育。やがてメルセデスベンツの工場で溶接と機械の仕事を得た。そうしている間でもナチとの関係を持ち続けた。

やがてアイヒマンはカフェABCでアウシュビッツの医師・ヨーゼフ・メンゲレ (Josef Mengele) と会ったり、反ユダヤでナチ布教者であるヨハン・フォン・レーアス (Johann von Leers) がエジプトに行くときの騒がしい送別会に出たり、ナチ移民がアルゼンチンの独裁者フアン・ペロンのために企画したセレモニーに参加したりした。アイヒマンは飲み、舌が軽くなった。

ナチの中にはホロコーストは連合国がでっちあげた嘘であると信じる者もいた。彼らはアイヒマンにホロコーストが嘘であると言ってほしかった。かくしてホロコーストの立役者に関心が集まり、アイヒマンは次第に思い切った行為に出るようになる。

多くの親衛隊の仲間と違って、アイヒマンは家族を養うのが困難だった。さらに、ニュルンベルクで証言台に立ったナチたちに裏切られたと感じてもいた。憤慨と失望の中で彼は2人のジャーナリストに出会う。オランダから来た Willem Sassen とドイツ生まれのアルゼンチン人 Eberhard Fritsch である。

Willem Sassen は戦争中ナチスの武装親衛隊にいたが、戦争が終わると訴追を逃れるために大西洋を渡ってアルゼンチンに来た。そして雑誌 "Stern" などに寄稿するようになる。Eberhard Fritsch は刺すような眼をしていて頬に決闘のときにつくった傷があり、口ひげを生やしていた。ブエノスアイレスで "Der Weg" という月刊雑誌を発行し、ドイツの国家社会主義にもう一度チャンスを与えようと訴えていた。

アイヒマン、Sassen、Fritsch の3人は日曜日になるとブエノスアイレス近郊の村にある Sassen の家で会っていた。テープレコーダーに会話を録音させながらアイヒマンは自分の犯罪について話し、自分がいかに重要な人物であったかを自慢するのだった。「私は命令に従うだけの人間ではないんだよ。そんな人間だったらただのバカだ。そうじゃない、私は重要な役割を果たしていたんだ。私は理想主義者だった」。

アイヒマンの口から後悔の言葉は一切出てこない。このときの会話を記録したテープはKoblenzにあるドイツ連邦アーカイブズに今でも保管されている。唯一の後悔は「すべてのユダヤ人を殺せなかった」ことに対してである。曰く、「正確に言えば我々は仕事をやりとげたとは言えない。まだやれたはずだ」。

3人の会合は他の者にも知れることになる。ホロコーストを知らない親衛隊のメンバーたちもグループに加わるようになり、ホロコーストに関するアイヒマンの恐ろしい説明に耳を傾けるのだった。やがてブエノスアイレスから来るクレメントと名乗る男の正体を知る者が数百人にのぼるようになる。もちろんアルゼンチンの情報はドイツにも届く。

1952年6月24日メッセージが届く。「アイヒマンは Clemens (Klemens) の名を名乗ってアルゼンチンで生活している。アルゼンチンのドイツ語新聞 "Der Weg" は彼の所在を知っている」。

Gehlen Organization (アメリカ占領下の西ドイツの諜報機関)はまた別の情報をつかむ。アイヒマンはブエノスアイレス市外の電力会社の建設現場で働いている、と。この情報を元諜報員がナチ・ハンターの Simon Wiesenthal に知らせ、WiesenthalがBNDとイスラエルに知らせ、さらに世界ユダヤ人会議を通してCIAに知らせた。1年後にはCIAとBNDはアイヒマンが最近までアルゼンチンにいたらしいことを互いに確認する。

Fritschの極右主義の新聞はドイツで売られていた。ドイツ国内の諜報機関BfVはFritshが関るグループに関心を寄せており、正確な情報をつかんでいた。ケルンにある連邦の関係機関はアイヒマンの別名、ドイツから脱出したこと、彼とFritschら他のナチとの関係を知っていた。

極右たちでさえアイヒマンの所在について公然と冗談を言い合っていた。1959年アイヒマンがクウェートにいると噂されていたときネオナチの出版物Reichsrufは「アイヒマンはどこにいる?」と題した記事でこう述べた、「彼はアルゼンチンにいる」と。それによると、アイヒマンはイタリア経由でカトリックの教会の助けを得てアルゼンチンに渡った、と正確に事実を言い当てている。まじめな刊行物でさえ「アイヒマンは南米にいる」と述べていた。

西ドイツの諜報機関はアイヒマン捜索に失敗したのだろうか? あるいは本当は彼を探したくなかったのだろうか? いや、事実はもっと複雑だった。Gehlen Organization もBNDもナチ戦犯を捕らえることを自分たちの使命とはみなしていなかったのだ。もっと重要なことは1956年までアイヒマンの逮捕状がなかったことである。告訴がなければ西ドイツ検察官は事件の捜査に乗り出さなかった。これによって得をしたのがアイヒマンなどナチの戦争犯罪者たちである。

1952年になってベルリンの裁判官宛てにアイヒマンのことを手紙に書いたホロコーストの生存者が現れた。これを受けて調査と訴訟手続きが始まったが即座に打ち切られた。アイヒマンは見つからなかった、とドイツ裁判所は結論を出したのである。結局のところドイツは犯罪者の楽園だった。

こんな状態がずっと続いたが1954年8月19日になって事態が動く。恰幅(かっぷく)がいい婦人がアルゼンチンの首都にあるドイツ大使館に赴き、子どもたちの旅券を申請したのである。申請理由には「息子たちが休暇中にドイツに行き、親戚を訪ねるため」と書かれていた。女性の名前はベラ・アイヒマン (Vera Eichmann)。アドルフ・アイヒマンの妻である。彼女は息子たちの誕生証明書と自分たち夫婦の婚姻証明書を提示した。この写しは現在でもドイツ外務省に保管されている。アイヒマンの息子たちの旅券はこのようにして発行された。

しかしアイヒマンを助けたのはドイツの領事だけではなかった。ドイツ外務省のアーカイブにはオーストリアを離れてアルゼンチンのアイヒマンのもとに向かうベラ・アイヒマンと子どもたちが使用した仮の渡航文書が保管されている。そこにはウィーンを占領していたソ連の職員のサインとイタリアの役人の押したスタンプがある。渡航先はアルゼンチンである。アイヒマンの家族やドイツやその他の関連国のことに関心を払う者はひとりもいなかった。

1956年にフランクフルトの検察が本格的に動いてアイヒマン逮捕状が発行されたが、このときBKA(ドイツ連邦刑事警察)はインターポールを通じて国際指名手配をおこなわなかった。「インターポールの決まりで政治犯と人種差別犯罪者の訴追は禁止されているから」というのが彼らの言い分だった。

唯一この事件を追い続けたのはドイツ連邦憲法擁護庁 (Bundesamt fu"r Verfassungsschutz) である。1958年連邦憲法擁護庁はブエノスアイレスの大使館に支援を要請した。大使館から来た返答は驚くべきものだった。「Clementもしくは別名を名乗る人物に関する問い合わせの件は今のところうまくいっていない。彼はアルゼンチンの首都にいるとは思われない。アルゼンチンにいるのさえ疑わしい。中東にいる可能性がある」。その後連邦憲法擁護庁は調査活動を停止してしまう。

奇妙なのは外交官たちがアイヒマンの動静をよく知っていたことだ。彼の逃亡を手助けしたドイツ系アルゼンチン人のビジネスマン Horst Carlos Fuldner はドイツ大使館を定期的に訪れていた。そしてFuldnerの会社CAPRIではアイヒマンが働いていた。ボンから来た特使がCAPRIの従業員たちを知っていたことを示す証拠はたくさん残っているのだ。

ナチスの武装親衛隊にいた過去を持つドイツのジャーナリストSassenの名前も大使館にあるがこれは別の理由によるものだ。彼はOldenburgというドイツ北部の町に住む女性への養育費を払うことを拒否していた(彼女はSassenの子どもを育てている、と主張した)。ブエノスアイレスのドイツ大使館はこの件でBNDの要求に応じてSassenのことを調査していたのである。

アイヒマンはドイツ当局に守られていたのだろうか? BNDはこの疑惑を何度も否定している。SPIEGELが入手した政府機関のファイルもこの見解を裏付けている。BNDの秘密メモによれば、アイヒマンは「BNDと全く接点がなかった」。

では大使館はどうか? これに関しては注目すべき事実がある。ドイツ連邦憲法擁護庁がブエノスアイレスの大使館に連絡をとったのが1958年。このときFuldnerはアイヒマンに、目立つような行動は慎め、と助言しているのである。

アイヒマン逮捕後ボンの外務省がブエノスアイレスの大使と外交官たちに発言を求めたとき、Klementと呼ばれていた男のことを知っていたと述べる者はひとりもいなかった。それどころか、アドルフ・アイヒマンという名前など聞いたこともない、というのが彼らの言い分だった。だが第三帝国の忌まわしい犯罪者の名前を知っていた者がひとりだけいた。現在84歳になる Georg Negwer 氏である。彼は当時ブエノスアイレスの文化大使館員だった。研修期間中にアイヒマンの名を知ったのである。

Negwer氏は、1935年以来ナチスの党員だったドイツ大使 Werner Juncker 氏も彼の同僚たちも決して嘘をついていないと信じている。彼によれば、ナチスたちはブエノスアイレスでは目立たぬよう行動しており、「それらしき兆候を見せないよう歩き回っていた」のだ。

Negwer氏はまたナチス系移民と非ナチス系移民の間にあった不和についても述べている。ブエノスアイレスに暮らす数万人のドイツ人はナチと非ナチに分かれ、それぞれ独自の劇場、独自の新聞、独自のアスレチック・クラブを持っていた。大使は彼の仕事として両者の和睦をはかろうとこころみ、非ナチスの人たちと同様にナチス関係者たちも会合に招いた。

この件を最初に真正面から取り組んだのはCIAである。しかしアイヒマンはアメリカ市民ではない。おそらくアメリカ人をひとりも殺していない。アメリカの領土で殺人をおこなっていない。このようなわけで彼の事件はアメリカの裁判所が取り扱うものではなかった。さらにアメリカ合衆国はナチス戦犯の訴追をドイツ連邦共和国に委ねていた。当時のCIA長官 Allen Dulles に宛てたメモの中で長官の相談役は、ワシントンが西ドイツに対してできるのは犯人引き渡しを手伝うことだけであり、それ以外の行為は違法である、と指摘している。

アメリカの外交諜報機関は合憲性と違憲性の問題に過度にとらわれていたわけではない。しかしイスラエルもまたアイヒマン拘束は容易ではないと認識していた。イスラエル外交機関は慎重に「ボンとブエノスアイレスの間には犯罪者の引き渡しに関する協定があるのか?」とドイツ外交機関に問い合わせた。ドイツ側の回答は「否」であった。

他方アルゼンチンはドイツの犯人引き渡し要求を、ドイツのBNDの言葉を借りれば、「甚だゆっくりと」取り扱った。多くのナチス犯罪者がなんとか逃げおおせたのは、アルゼンチン当局が逮捕を全く急がなかったためである。アイヒマンをつかまえるには通常の方法では不可能なのは明らかだった。

1960年4月モサドのチームがアルゼンチンに渡る。その任務はアドルフ・アイヒマンの拉致を準備することであった。

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