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アフリカに売られた125万人の白人奴隷

つい最近知った OMG Facts の公式Twitterアカウント経由情報。ヨーロッパの人々が頻繁に海賊に襲われて奴隷としてアフリカに売り飛ばされていたという史実。

約1年前のBBCの記事 "British Slaves on the Barbary Coast" を紹介してみる。これを書いたのはオハイオ州立大学のロバート・デイビス (Robert Davis) 氏。以下は原文の翻訳ではなく概略である。


アフリカの海賊に襲われていたヨーロッパ

西暦1600年代前半のヨーロッパはコルセア (corsair) と呼ばれる海賊に襲われていた。彼らはバーバリー (Barbary) からやって来た。バーバリーとは北アフリカの海岸地方全体の呼び名である。コルセアはイギリスをはじめとするヨーロッパ各地の沿岸で船を奪い、船乗りを奴隷にしてアフリカで売った。イギリスの海事裁判所の記録によれば、1609年から1616年にかけて466隻の船が襲われている。

1677年から1680年にかけて160隻のイギリス船がアルジェリア人の海賊に奪われた。7,000から9,000人の健康な男女が奴隷にされたと思われる。

アルジェリアの海賊は船を襲撃するだけでなくヨーロッパの海岸地域の町や村も襲った。1631年に海賊の襲撃を受けたアイルランドのバルティモア では住民の大半が拉致された。

奴隷の数

1500年代から1600年代にかけて北アフリカ沿岸のトリポリ、チュニス、モロッコ、アルジェリアにいたキリスト教徒の奴隷は約35,000人である。その多くは船乗りだったが、海岸地域の猟師や住民もいた。連れ去られたイギリス人はほとんどが船乗りである。その数は多かったが、それでもアフリカに近いスペインやイタリアに比べれば少なかった。南欧のバレンシア、アンダルシア、カラブリア、シシリーなどで奴隷商人に拉致された人々は数千から数十万人に及び、村人全員が消えた村もあったという。

どれほどの人たちが奴隷になったかの正式な記録はない。しかし死んだり逃亡したり身代金で買い戻される奴隷もいるわけであり、そういう事情を勘案すると、奴隷需要を満たすには毎年およそ8,500人の奴隷が補給されていたと思われる。だとすると1580年から1680年までの100年間に約850,000人が奴隷にされたことになる。1530年から1780年までの250年間にはその数が1,250,000人にまで達した。これは1500年から1800年にわたってアフリカからアメリカに売り飛ばされた黒人奴隷の10分の1あまりだが、それでも注目すべき数字である。白人奴隷の多くは貧しいので身代金で買い戻される者は少なく、ほとんどが奴隷としてアフリカで一生を終えた。

奴隷の運命

奴隷たちは劣悪な環境で働かされた。仕事は海賊のガレー船を漕ぐことである。数千から数十万の奴隷がオールに鎖をつながれたまま死ぬか発狂した。

冬になると採石場から石を切り出したり港湾設備や塀をつくったり木材を切り倒したりガレー船を建造したりする仕事が課せられた。数きれの黒パンだけが彼らの食事だった。疲労困憊と栄養失調で倒れると鞭で叩かれ無理やり仕事に戻された。奴隷にされた女性の中にはハーレムに連れていかれた者もいたが多くは身代金目当てに人質として買われた。解放されるまではハーレムの召使として働いた。

民間に売られた奴隷の場合は少々事情が異なる。人間らしく扱われる奴隷もいたし、稼ぎが悪いと鞭で叩かれる奴隷もいた。奴隷の所有者によって扱いが違った。年老いた奴隷は転売されるか砂漠に放置された。

ヨーロッパの反応

奴隷を救出するための本格的な取り組みが始まったのは1640年ごろである。スペインやフランスなどでキリスト教のトリニティー会やメルセス会などの教団が中心になって基金を設立し、北アフリカのバーバリーまで救援に向かった。貧しい奴隷は宗教的な意味で典型的な「生贄」であり、彼らを救い出すことはカトリックの教会にとって格好の慈善事業だった。1700年代になると奴隷救出活動によって奴隷の供給量が大きく減少する。そのため奴隷の価格は高騰した。

カトリックに比べるとプロテスタントの国々つまりイギリスやドイツの取り組みは不十分だった。イングランドでは「アルジェリア税」なるものがつくられたが税収の大半は他に流用された。このようにして多くのイギリス人奴隷が絶望の中で死んでいった。

奴隷制の遺産

多くの奴隷がイスラムに改宗したが改宗したからといって奴隷の身分から解放されたわけではない。ハーレムに送られた女性から生まれた子どももイスラムになった。

奴隷たちは軽い仕事を探し求め、中には奴隷の監督者になった者もいた。自由を得た者もいた。このような「背教者」は1580年から1680年までの北アフリカのバーバリーに約15,000人いた。中には海賊の船長やバーバリーの高官になる者もいたが、そういう人たちのほとんどは奴隷だったわけではなく仕事を求めてキリスト教を捨ててヨーロッパからバーバリーに渡った人々である。

バーバリーの奴隷たちは肌の色が黒であったり褐色であったり白であったり様々だった。宗教もカトリック、プロテスタント、正教、ユダヤ、イスラムなど多様だった。当時の人々の感覚では「奴隷すなわち黒人」ではなかった。アメリカに黒人奴隷がいたように北アフリカには白人奴隷がいた。人種にかかわらず誰もが奴隷にされる時代だったのだ。

現代の人々は人種と前近代の奴隷制度を安易に結びつけて考えているが、このような思い込みは再考する必要があるだろう。ヨーロッパの広範囲の地域で人口が減少したこと、一家の稼ぎ手を拉致されたことによって貧しい人々がより一層困窮したこと、奴隷を解放するために多額の金銭が支払われたこと - これらの出来事が今日の歴史家に知られるようになったのは最近のことである。


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この出来事を取り上げているWebの日本語文献は非常に少ない。

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